MINI THEATER

『そこにきみはいて』(2025)-Yasutomo Chikuma

acinephile

『そこにきみはいて』

※試写

 映画『そこにきみはいて』が11月28日(金)よりヒューマントラストシネマ渋⾕ほか 全国順次公開された。

 俳優として出演もしている中川⿓太郎の原案で、監督は⽵⾺靖具。人に対して恋愛感情を抱かず、性的な欲求を抱くこともない “アロマンティック・アセクシャル”の主人公・香里を福地桃子が、その香里の理解者で自身も生きづらさを抱える健流を寛一郎が演じている。注目のふたりの俳優に加え、中川⿓太郎の演技も見どころだ。

あらすじ

 海沿いの街を旅する香里(福地桃子)と健流(寛一郎)は、恋人というより、どこか家族のようだった。だが入籍が近づいたある日突然、健流は自ら命を絶つ。お互いにとって一番の理解者だと信じていた香里はショックを受け、健流と出会う以前のように他人に心を閉ざす。そんな中、香里は健流の親友であったという作家・中野慎吾(中川龍太郎)を思い出し、彼の元を訪ねる。健流の知らなかった一面を知るために、ふたりは街を巡り──。

映画『そこにきみはいて』公式サイトより

作品評論 ※作品の内容に触れています

※ネタバレを含みます、鑑賞後にお読みください

 確かに健流は香里のことを大切に想っていた。中野が言っていた言葉に間違いはない。

 冒頭、固定されたカメラで足元のみが映し出される。右から左へ左から右へ。人びと足は忙しなくどこかへ向かっている。次の瞬間、青いマフラーがフワッと歩道の上に落とされる。一度通り過ぎた持ち主が慌てたように戻ると、青いマフラーを拾い上げ足早にその場を去った。

この青いマフラーの持ち主が本作の主人公の香里だ。青は香里を表していた。仕事をバリバリとこなしいつも冷静。どこか冷たさも感じる、眼差し。セクハラ男を跳ね除ける強い女性、それが香里だ。他人に合わせることや媚びることもなく、よく言えば自分の思いに正直で、悪く言えば周囲に興味を持たない人間のようでもあった。

そんな香里は自身の相続関係の担当弁護士、健流と出会う。ふたりはあっという間に距離を縮めていき、やがて付き合うようになる。アロマンティック・アセクシャルの香里とクィアの健流。諦めかけていた世界の中で、ふたりの出会いは「何かが変わるかもしれない」そう思わせるものだった。しかしふたりの時間を積み重ねれば積み重ねるほどに健流は自分の欲求に苦しむこととなり、香里は健流へどことなく依存するようになる。ふたりの旅行ではそれが顕著に示されていた。

「あの子きっと健流に気があるよ」

そんな香里の言葉は健流にはキツかっただろう。言葉と心が相反し、目の前にいる人間が嘘つきのように映る。香里自身は何も考えず軽い気持ちで言ったのかもしれない。しかしどうもこの香里の言葉は、相手を束縛するヤキモチ焼きが強がっているように聞こえてしまう。

一方、話しかけてもどこか上の空の健流の態度は香里をイラつかせた。しかし健流が時折見せる無邪気な笑顔に、香里の苛立ちは帳消しされるのだった。

遠いようで近い、近いようで遠い。

クラブで自分を解放して踊る美しい香里の姿を目にした健流は思わず彼女を抱きしめる。そして彼女を見つめたその目から、涙が溢れ出した。健流の感情は爆発寸前。香里のことはものすごく大切で愛おしい。確かにその心はあるはずなのに、己の身体は別の方向を向く。そして抱き寄せられた香里が健流を拒絶するようなそぶりを見せたことで、香里自身が恋愛感情や性的感情を望んでいないことが健流に改めて突きつけられる。はじめから分かっていたはずなのに……ぐちゃぐちゃだ。

香里は健流に本当の自分を見せることができ、健流はそれを受け止めた。しかし健流は香里に本当の自分を見せることができず、自分の欲求を抑えることもできない。香里を大切に思うからこそ罪悪感に押しつぶされそうになる健流。

そして健流は自ら死を選んだ。

 健流の死後、香里は中野と旅に出る。健流の「死」は香里にとっては「唯一の大切な人の死」であり、中野にとっては「元恋人の死」。残されたふたりは健流の最後の足跡をたどりながら彼の死の理由を探す。しかしその答えを見つけることはおそらく一生かけても無理だろう。ふたりが旅する中で思い出されるのは、健流の「生」なのだから。やがて現実では行っていない、健流、香里、中野がなんとも気持ちよさそうにクラブで踊る姿が映し出される。香里の解放に健流と中野も加わった形だ。3人はとても美しかった。香里も健流も中野も、みな満ち満ちとした笑顔で思いのまま踊る。解放、自由、生、そんな言葉がしっくりとくる印象的なシーンだ。健流はそこへたどり着いたのだろうか?

旅の最後、中野は言葉にならずとも自らの心の内を吐き出した。これこそが彼の解放、自由なのかもしれない。そしてこれまで他人を近づけまいと堅く冷くそして重い鎧をつけていた香里は今、健流と一緒に走ったコースをひとりで軽やかにランニングしている。

健流は死んだ。しかし中野と香里を前に進ませたのは、健流の「死」であった。死は生を思い出させる。彼が生きてふたりと出会い、与えたそのひとつひとつが、残されたものを一歩、また一歩と動かすのだ。

 わたしは思う、これは「クィアの死」でも「クィアの悲劇」でもない。この世でただひとり、「健流が選んだ人生」であるということ。彼はどうしようもなく苦しんだ。だがそれは社会のせいでも世間のせいでもない。なぜなら健流のそばには香里がいたのだから。香里は確かに健流を大切に思っていた。恋愛でも家族愛でもない、名前のない愛のようなもの。そんな香里にすべてを打ち明けていたら?「健流が選んだ人生」はもっと別の方向へ進んでいたかもしれない。

健流の死を、人生の最期を「クィア」という言葉で一括りにして終わらせてはいけない。マイノリティ云々の以前に、「互いに大切に想うこと」すなわち「愛のようなもの」、それこそがこの物語の本質ではないかと考える。その愛ではない愛のような何かは人によって異なる。色も形も匂いも音も……何もかもがさまざまなのだ。

 渇いた空気感と余白を持たせた物語の紡ぎ方は、個人的には大好物だった。苦手な方は苦手、これはそれぞれの好み次第ということで。

『そこにきみはいて』このタイトルを見て最初に浮かんだのは『そこのみにて光輝く』だった。佐藤泰志の小説は大好きで何度も読み返している。そして映画『そこのみにて光輝く』も好きな邦画のひとつだ。この「そこ」は「底」であり、すぐ近くの「そこ」であるとわたしは受け取っている。『そこにきみはいて』ももしかしたら同じかもしれない。鑑賞前にそう思い、鑑賞後もずっと考えている。

 どっぷりと評論したあとにこれを言うのはどうかと思うが、ひとつだけ気になった点があるので付け加えておきたい。

それは人物設定。これには詰め込み感が否めなかったというのが本音である。香里はアロマンティック・アセクシャルで、健流と中野慎吾と香里の後輩である篠塚真悠子もクィア、そしてそれ以外の人間は、ありえないセクハラヤローを筆頭に「絶妙にイヤな奴」として登場する。前半でこの設定が印象付けられたうえに(後半の篠塚真悠子の告白も、取ってつけたようで無理があった)「喪失」を描くことは、自らラベリングしているようなもので、どうも時代錯誤に思えてしまう。

わたしの親世代ではどうかわからないが、少なくとも40代のわたし、30代の友人、そして20代と10代のわたしの子どもたちの周囲ではごく当たり前に香里や健流のような人間がいる。かくいう私自身もノンバイナリーなのだから。この作品が現代のものならば、複数のマイノリティに焦点をあてるのではなく、みなが抱える社会の空気感も映して欲しかった。

『彼らが本気で編むときは』(2017)、『カランコエの花』(2018)、『ミッドナイトスワン』(2020)、『エゴイスト』(2022)、『怪物』(2023)……。日本だって時代は大きく動いている。それも急速に。セクハラヤローは激減しているし、セクシュアリティについても3年前より2年前より1年前より、確実に受け入れられるようになっている。現代(公開時)に寄せる(制作は数年前になるから未来を読むことになるが……)、あるいは年代を明確に出してくれていれば、もう少し違和感なく観れたかもしれない、とほんの少し思ってしまった。

とはいえ福地桃子さんは最高でした

カリナチエ

作品情報

監督:竹馬靖具
脚本:竹馬靖具
原案:中川龍太郎
出演:福地桃子、 寛一郎、 中川龍太郎、 兒玉遥、 遊屋慎太郎、 緒形敦、 長友郁真、 川島鈴遥、 諫早幸作、 田中奈月、 拾木健太、 久藤今日子、 朝倉あき、 筒井真理子
企画・プロデュース:菊地陽介
⾳楽:冥丁
撮影:⼤内泰
制作プロダクション:レプロエンタテインメント
配給:⽇活
2025/97分/ビスタ/⽇本/5.1ch
©︎「そこにきみはいて」製作委員会
https://sokokimi.lespros.co.jp

ABOUT ME
カリナチエ / CHIE KARINA
カリナチエ / CHIE KARINA
ライター
ファッションブロガー、ウエディングカメラマン、国際医療系NGO広報、モノメディアWEBライターを経てフリーライターへ。映画、カメラ、グルメ記事などを中心に執筆。また映画評論サイト「a Cinephile」を運営中。
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