MINI THEATER

『零落』(2023)-Naoto Takenaka

映画『零落』

 漫画家・浅野いにおの10作目となる連載作品「零落」を、『無能の人』から監督作10作目となる竹中直人が映画化。

 青春漫画「ソラニン」をはじめ、名作鬱漫画としてディープなファンを魅了した「おやすみぷんぷん」、初のアニメ化も決定しているSF青年漫画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」といつた、常に枠にはまることなく突き進む漫画家・浅野いにお。「零落」もまた新境地への挑戦であり、浅野いにおの「自分の今の感覚」で描かれた作品となっている。

 主人公の中年漫画家・深澤薫を斎藤工、その主人公が出会った風俗嬢・ちふゆを趣里が、深澤の妻であり漫画編集者として働く町田のぞみをMEGUMIが演じる。さらに玉城ティナ、安達祐実、永積崇(ハナレグミ)、しりあがり寿、大橋裕之なども出演。本作にも出演する志磨遼平は、ドレスコーズの「ドレミ」を主題歌として書き下ろしている。

 原作未読のまま鑑賞した『零落』。真っ黒な海の気配を背中にぶら下げながら、目を逸らすことができなかった128分。だれか彼の手を引いて、美しい世界を見せてあげられるひとはいないのか?彼の頬に両手で触れ、確かにここにある“温度”を伝えるひとはいないのか?これが人間の醜さ、脆さ、儚さ、そして美しさなのだろうか。

あらすじ

 漫画家・深澤薫は、8年間続いた「さよならサンセット」の連載を終えた。かつては人気作品であった「さよサン」は、最終巻の発行部数は減少され、SNSには酷評が多数書き込まれる始末。さらには漫画編集者である妻ともすれ違うようになっていた。そんな空虚な日々を過ごす深澤は、ある日、猫のような目をした風俗嬢・ちふゆと出会う……。

作品評論

人間のどうしようもない人間らしさ

 誰かを傷つけ誰かに傷つけられて、誰かを憎み誰かに憎まれて、誰かを妬み誰かに妬まれて……そうやって人は生きていく。しかし多くの人はそれを隠して生きていく。それは誰にでもやさしく、愛のある世界こそが、人間の目指す美しい世界であり、人々は「そうありたいと願っている」からだ。

 本作の主人公・深澤薫は、一見すると小心者で「そうありたいと願っている人」。ところがストーリーが進むにつれ、その隠された人間の影の側面が色濃く浮かび上がってくるのだ。自己愛が強く、他人には冷淡。己自身が黒い海のような恐ろしい瞳で、世界を見下している。言うならば大人の思春期のようなもので、決して他人を寄せ付けない自分だけの小さな世界に閉じこもっている哀れな捻くれ者なのだ。

 ところがこんなにも醜く哀れな人間から漂うのは、微かな美しさの香り。これがただのクソ中年の物語だったとしたら、不快感しか残らないはずだ。しかしそこに美さが加わることで本作は「人間のどうしようもない人間らしさ」が描かれた「作品」へと昇華させられている。それをやってのけたのは、やはり独特の雰囲気を持ち合わせた俳優・斎藤工の力演の賜と言えるだろう。

 「ダイナシだよ……」この6文字のセリフが最高にサイテーで、最高にウザくて、最高に醜くて、ゾワっとさせられるほど最高だった。

 そういった意味でも人間という生き物はつくづく勝手な生き物であると、この作品から身につまされるのだった。

「猫のような目をした」ふたりの女

 本作においてもっとも重要と言えるのが「猫のような目をした」ふたりの女。ひとりは風俗嬢・ちふゆ、そしてもうひとりは深澤の元カノだ。このふたりのキャラがしっかりと立っていないと、ひとりよがりの陳腐な映画になってしまっていただろう。

 深澤ははじめてちふゆと会った際にその目を見て緊張すると同時に、元カノを思い出す。元カノはずっと消えることなく深澤のなかに居続けていた。深澤にとって元カノは、自分を本質を見抜いた恐ろしくも大切な人。その人と同じ目をしたちふゆに、深澤はどんどんのめり込んでいくのだった。

 ちふゆのキャラクターはかなり個性的。独特な話し方で彼女が選んで並べる言葉からは、昭和の時代を生き抜く自立した強い女性の雰囲気が感じられた。言うならば「赤い小悪魔」。ちふゆと過ごす深澤は、現実を逃避した夢の中にいる。橋の向こうにある妖艶で甘い香りが漂う世界から、ちふゆが深澤を誘っている。彼女の姿、彼女の話し方、その存在自体が、人間の内面を曝け出す深澤を中心としたストーリーのなかで、際立って現実離れしているのだ。風俗嬢ってあんな感じなのだろうか?と違和感さえ覚えた。このリアリティのなさはもちろん意図した演出に違いないが、個人的には後半に登場する仕事抜きのちふゆには、もう少しナチュラルさが欲しいと思った。話し方があまりに独特なので、あの服装あの表情の普通の女の子の話し方としてはどうもしっくりこなかった。

 また、ちふゆのキリッとした「赤い小悪魔」の雰囲気とは正反対のふんわりと柔らかい空気を纏う元カノのキャラクターも個性的。作中では深澤が見ていた元カノの姿と声が、フラッシュバックとして挿入されている。こちらは「白い小悪魔」。ある意味では、「赤」よりやっかいだ。深澤は掴みどころのない彼女に、ざっくりと傷つけられ、別れた、苦い記憶のなかのひとのはず。しかしやはり彼女は深澤にとって特別で、痛くも美しい過去の記憶として保存されている。

 このふたりの「猫のような目をした」女を演じたのが趣里さんと玉城ティナさん。

 風俗女・ちふゆ役の趣里さんは作品の要となるキャラクターを見事に演じていた。ああいった魅惑の小悪魔女性が本当によく似合う。鑑賞者であるわたしも深澤と同じように、ちふゆに夢の世界へと連れていかれてしまいそうになった。

 玉城ティナさんは深澤の記憶のなかの元カノ役としての登場。ちふゆと同じ猫のような目をしている彼女は、天使のような柔らかさを纏いながらも、どことなくダークサイドが見え隠れしている。そしてときどき確信をつくナイフのような言葉を吐く。あらためてこのキャラクターをこうして文字に書いてみると、非常に難しい人物像だということがわかる。それをよくあの短いシーンで鑑賞者へ伝えられたものだと思う。玉城ティナさんすごすぎる。

ウザキャラへの嫌悪感、そして共感

 終始ねちねちと重苦しい雰囲気のなか、ときどきぶっ込まれる超個性的なキャラクターの登場が非常にいいスパイスとなっていた。そのスパイスのお陰で、ストーリーが進むに連れ忘れかけていた楽しさをハッと思い出せてくれるのだった。

 山下リオさん演じる深澤のアシスタント・冨田奈央。彼女のある意味でのとち狂いっぷりはとくによかった。こちらもとんだ自己チュー人間なのだが、もうそれを通り越して笑えてくるのだ。彼女もまた、深澤と同じくこころのなかが隠せない人間。自分さえよければそれでいいタイプで、たぶん冨田はだんだん世の中を知っていくうちに深澤のようになるのだろう。しかし冨田の少し先を行く深澤は自分と似た部分をもつ彼女に、周りの人間が深澤に覚えるウザさと同じものを感じている。なんとも皮肉なものだ。

 そしてそれは、ちょっぴり耳が痛い話であると思う鑑賞者もなかにはいるだろう。トレンドに左右され、売り上げや人気をキープし続けなければならない仕事をしているひとは、多少大袈裟とはいえ、深澤や冨田の気持ちがよくわかるはずだ。どうしようもないプレッシャーや不安は、周囲のすべてを敵のように思わせることがある。まあ、それを口に出さないのが大人という生き物なのだろう。しかし実際には自分の不都合を世の中のせいにする、大人の顔をした中身の小さなエセ大人なんて山ほどいるのだ。わたし自身もまたそのひとりといえる。

 そんなキャラクターを見て不快に感じてしまうのは、よっぽどできた大人であるか、あるいは自身と重なる部分があり、痛いところを突かれたエセ大人かのどちらかだろう。

 どうか目を逸らさず観てほしい。そうすれば、きっとこの作品は自分の内面を炙り出してくれるものとなるから。それこそがこの作品の本質であるとわたしは思う。少し踏み込んで映画を観ることで見える、こころの奥底に潜む本当の自分。あの愚かで滑稽な深澤……、あの醜くひたすらウザイ冨田……。その嫌悪感の正体は、彼らにほんの一部でも重ねた自分自身ではないだろうか。

みんながみんな、そうじゃない

 本作のなかでわたしがもっとも好きなキャラクターは、深澤のもうひとりのアシスタント・近藤だ。あんな深澤を、近藤は尊敬していた。深澤はそれに気付いていたのだろうか?自分のすぐそばで自分を静かに支えてくれていた近藤が、いちばんの理解者だということを。ラスト手前で近藤が映るほんの僅かなシーンは、「この世界も悪くない」と美しい希望を持たせるものであった。深澤を救えるのは近藤のようなひとなのだ。もっとも深澤自身が他者を理解し、周囲を受け入れることが前提だが。それがようやく、この大人の醜い思春期を終わらせてくれるだろう。

 一方で深澤信者のアカリは、そうじゃない思っていたがそうだった側のひと。ラストのシーンは、浅野いにお自身が日々感じていることなのだろうか?もしそうだとしたら、芸術作品やエンターテイメントを受け取る側にも責任があるのだと思う。

 漫画、映画、小説、音楽、絵画など。それらは命を削って生み出された作品であるということを、決して忘れてはならない。たとえ自分に合わない作品だったとしても。

零落

 零落(れいらく)とは1.落ちぶれること、2.草木の枯れ落ちること

 深澤が堕ちていく姿。空から堕ちてくる雪の景色や黒い海の波など。それらのインサートがひと呼吸を与え、その奥で微かに輝く美しさの輪郭を色濃いものにする。個人的にはもう少し大胆でもよかった気がするものの、フラッシュバックもあるため控えめにしたのかもしれない。

 堕ちていく姿。格好悪くて、滑稽で、無様な姿。しかしそこには刹那の美しさが刻まれている。

作品情報

(C)2023 浅野いにお・小学館/「零落」製作委員会

映画『零落』
公開日:2023年3月17日(金)テアトル新宿ほか公開中
出演:斎藤⼯、趣⾥、MEGUMI、⼭下リオ、⼟佐和成、吉沢悠、菅原永⼆、⿊⽥⼤輔、永積崇、信江勇、佐々⽊史帆、しりあがり寿、⼤橋裕之、安井順平、志磨遼平、宮﨑香蓮、⽟城ティナ、安達祐実
原作:浅野いにお「零落」(小学館 ビッグスペリオールコミックス刊)
監督:竹中直人
脚本:倉持裕